津村泰彦  Yasuhiko Tsumura

静岡県伊東市出身、生後神奈川県葉山町一色に転居
逗子聖マリア幼稚園、同小学校
湘南学園中学、同高校、
法政大学経済学部商経科
木村好夫に師事

1970〜1980年代の日本の音楽業界を、裏で支えたスタジオミュージシャン界を代表するトップギタリストのひとり。
20年余りの活動期間に行ったギターでのレコーディング件数は優に数万曲を超える。


<ウクレレって何?>
shonan_4.jpgさて、そもそもウクレレとはどんな楽器だろう。まずはこの楽器の起源からたどってみたい。
1879年にポルトガル人がハワイに移住する際、ブラギーニャという民族楽器を持ち込んだ。この楽器がウクレレの起源と言われている。ハワイで独自に改良を重ねられ現在の形になったのだそうだ。ハワイ語で「飛び跳ねる(lele)蚤(uku)」という意味を持つ。小さなウクレレの上で奏者の指がめまぐるしく動く様をそう表現したとも、長い航海の末ようやくハワイに辿り着いた移民達が喜び勇んで歌い踊っている様がノミが飛び跳ねるように見えたからとも言われている。ボディーの素材にはコアというハワイ特有の木が主に使用される(現在は多種多様)。弦をはじくことで音を出すため撥弦楽器(プラックト・インストゥルメント)として分類され、分類属性はリュート属。ボディーの材質や木の目、ホールの大きさなどによって一台一台その音に個性がある。製造から歳月が経つにつれ音が良くなっていくともいわれる。単に歌の伴奏楽器としてのイメージが強いが、近年ソロ楽器やウクレレ・アンサンブルとしての注目度も高まっている。


<津村泰彦ウクレレ物語(ストーリー)>
「僕は音楽が大嫌いだった」「楽器なんて見るのも触るのも嫌だった」津村泰彦はそう語り始めた。彼はためらうことなく自分の歴史を振り返り確認するかのように何度もそう繰り返した。そう、そこに彼の音楽の原点(スタート)があるからだ。ギタリストとして広く世界を渡り歩き、国内においては第一線のスタジオミュージシャンとして20,000曲にも及ぶ録音実績を誇り、その後作曲家としても活躍。そして現在、生まれ育った湘南で、ウクレレをいとおしく抱きかかえつまびく、まるで小さな子供を抱きかかえる母親のような優しさで。何が彼をそうさせたのか、そうさせているのか・・・。そこにはさまざまな出逢いと別れ、数々の物語(ストーリー)がある。

原点(スタート)
shonan_9.jpg彼の音楽との最初の出逢いは幼少期、いわゆる習い事としてのバイオリンだった。親のたっての希望で始まったことだ。しかし親の期待(=愛情)と本人の意思とにはとかく温度差があるものだ。幼い津村泰彦も愛犬小屋に半日こもり、親に反ストまでおこしバイオリンを投げ出した。そして彼は海遊びやボーイスカウト(鎌倉第3団)の活動に没頭し、自分なりの楽しみを謳歌しながら少年時代を過ごす。逗子聖マリア幼稚園、小学校。彼の歴史の中で音楽とは無縁だった時代。



音楽との再会
その後彼は湘南学園に進学。湘南文化の形成にあらゆる意味で多大な影響を与えた湘南学園は、その「自由奔放で個人は何たるかを尊重する校風(津村談)」から多くの芸術家や文化人を排出している。そんな学園での日々が彼のその後の人生に与えた影響も無論大きい。まずは彼の音楽との再開である。ウクレレとエレキギター。自由な校風の中で育まれた仲間とのセッション。そこで始めて音楽の“楽しさ”と触れることとなる。クラスのアマチュアバンドがその後永遠と続く津村泰彦の音楽人生のスタート。幼少期の親からの強制的な音楽へのいざないが、皮肉にも知らず知らず彼の「音楽を聴く耳」を育んでいたことに後々気付かされることとなる。彼は音楽の才能をそれまでの長い空白を埋めるかのように開花させ、高校在籍中に寺本圭一とカントリージェントルマンに所属、法政大学在籍中にレコード会社からスカウトされギタリストとしてデビュー。グループを結成し4枚のレコードを発売している。おぼろげながらも「音楽でやって行きたい」という彼の想いはすでに固まっていた。

師との出会い
shonan_5.jpg故 木村好夫氏師・故木村好夫氏との出逢いは彼のその後の音楽人生を大きく飛躍させ方向付けることとなる。所属していたコロムビアレコードの第2スタジオで木村氏のギタープレーに触れ衝撃を受けた。「こんなにもギターを愛し、音楽を愛する人がいた」「先生のようになりたい」と直感的に感じだ。その後レコード会社との仕事を継続させつつも、いつまでも強烈に頭の中に焼きついているのは木村氏のギターだった。意を決して師の門をたたくも断られ、それでも諦めきれずに再び門をたたき念願の弟子入りを許される。津村泰彦はギタリスト木村好夫氏の文化を継承している唯一の弟子である。


飛躍の時代(とき)
shonan_3.jpg師のそばで、ギターの腕前以上に人間と本当の音楽を学んだ彼は、師と同様、スタジオプレーヤーの道に進み、着々とメジャーで実績を積む。言わずもがな当時の全盛、ピンクレディーや井上陽水、山口百恵、吉幾三など、20,000曲にも及ぶ楽曲制作に参加した。模索しながらも、常に音楽に真摯であった彼の努力が身を結ぶ時代(とき)が来た。

失意の瞬間(とき)
「自惚れと思い上がりがあったと言ってよいと思う。」彼は華々しく活躍する当時の自分を振り返りそう語る。名を馳せれば馳せるほど、周囲はそれを放っておかないものだ。プライベートにまで及ぶ連日のマスコミ取材攻勢、中傷。その結果大切な人間関係を失うこととなる。

苦悩の時代(とき)
この頃から世の中のコンピュータミュージックの発達は目覚しく、音楽シーンは演奏技術を重要視しない時代に移行していく。むろん津村泰彦とて、この時代の潮流に抗うことはできない。失意と絶望の中、とある山中で偶然にも授かった天からの声(メロディー)がこの後彼を作曲家に転向させることとなる。無我夢中で曲を書いた。しかし書く世界においてもコンピュータミュージックの壁は分厚く彼の前に立ちはだかる。音楽業界のこの潮流に政府の再販制度の撤廃が拍車をかけ、彼の中での音楽人生はこの時いったん否定され頓挫した。「一生分の酒を飲んだ時期だった」そうだ。


母との別離(わかれ)
shonan_10.jpgNYにて 大木トオル氏と作品のニューヨーク録音と言う作曲家としても一つの大仕事を終えた頃、彼は母の看病をするために生まれ育った湘南へ戻ることとなる。数ヶ月後の永遠の別離は彼の人生に大きな区切りをつけてしまった。



湘南への回帰
喪失感とともに、今後の自分を想い呆然とする日々。すべて処分したはずのギターの一台が自宅の物置に眠っていた。懐かしくギターをかかえ、鎌倉材木座海岸で弾いてみた。ギタリストを辞めてからずっと封印してきたことだ。「指は戻ってこない、駄目だな」と思い知る。自宅に戻りその日の夜、左の指にしびれが続き朝が来た。その後不思議と運指がスムーズにできるようになった。「脳の情報を指の関節がダウンロードしたという感じがあった。長く貯めてあったスキルは自分の脳にきちんとセーブされていたと感じた。」彼はそう語る。指にかつての技術(スキル)が戻ってきた。 「今思えば、あれが音楽ともう一度ひたむきに向き合いなさいと言う神の啓示だったような気がする」彼はそう述懐している。
毎日海岸で弾いた。青春の頃の様に・・彼の音楽の原点、湘南の地に継承すべき物があるとすればそれは何か・・何か大切な事・・やらなければならない事は何か・・・できる事は何か・・黙々とスケールを弾きながら自問自答の毎日が続いた。まさに湘南の海が彼に何かを教示した毎日だった。答はウクレレだった。 彼は思う。
shonan_6.jpg「湘南は自分が生まれ育った大切な場所。湘南の原風景とともに根付いているはずのウクレレ文化を守ること、これこそが自分の使命だ。」と。その後来る日も来る日も寝る間も惜しんでウクレレと向き合う。そんな日々の中、かつて極めたギターとはまた違うウクレレという楽器自体の奥深さ、力強さに触れ、独自の奏法を模索することとなる。津村泰彦は今、人々が忘れ去ろうとしているアナログ音楽の力強さや優しさ素晴らしさを、湘南文化とともに多くの人に継承するべく弾き続ける。
こうしてウクレレは、彼の音楽の歩みと巧みな技術とともに、今ここ湘南で新たな息吹を吹き込まれ生まれ変わる。
<アルバム「湘南」より:写真 横山泰介・文 中村美香>


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